しゅーまいの日常。

社会人。26歳男。理系。

シルクロードを歩きたい。

突然だが、“シルクロードを歩きたい”と思った。

 

京都にある、瑠璃光院に行った際、三蔵法師の足跡を辿る旅として、瑠璃光院の僧侶がシルクロードを訪ね歩いたとあった。実際にどんな道のりで、どんな経路を通ったかまでは分からなかったが、実際に歩くことで、仏教伝搬の道のりや、釈迦の生涯を追体験する云々のことができたと書いてあり、それを読んだときになぜか鳥肌がたった。

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瑠璃光院

 

 

仏教に対する興味は元々なかった。

ただ、京都を訪れて、神社や仏閣の大きさに圧倒された。

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こんな大きくて、荘厳な建物を作りたくなるくらい、昔の人は、宗教に惹かれていたんだろうか。

だとしたら、自分も知らないだけで、知ってみたら興味が湧くような素晴らしいものなんじゃないかと思った。もちろん歴史的背景や、科学技術が発展していない上で、宗教の生き方が、もっともらしいとされてきたのだろうと思うが、現代においても、ここまで力を持ち、かつ、神聖な感じをさせる宗教とはどんなものなのだろうかという興味が湧いた。

 

そういえば、座禅にも興味があった。

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座禅

マインドフルネスという名前で今に集中する訓練としてその効果が科学的に見直されている。このことから、仏教はより実用的な宗教であるとも言われている。その座禅を通して釈迦が悟ったこととはどんなことだったのだろうか。“悟り“の定義には、言葉で言い表せないという意味が含まれている。私は釈迦が体験した悟りを、この身で少しでも体験してみたいと思った。欲を言えば、仏教が伝来した道を辿り、その場所場所で座禅を組む事で、それが少しでも実感できるのではないかと思った。

 悟りを実感したい理由として、そもそも自分の人生とはなんなのだろうかとつい考えてしまうことがあげられる。結局、何をしたとしても死んでしまう。なら生きている時間をなるべく幸せに生きることが1番の目的になるのではないか。でも、人生とはそんな単純なことなんだろうか。

 この悩みは、人間がサルから進化して物心ついた頃からの悩みだろう。そんな限られた人生の中で、釈迦は35歳で悟り、この悟ったことを80歳になるまで布教を続けた。自分の時間を犠牲にしてまで教えたくなるような、人生の教訓とは、悟りとはなんだったのか。もしそのかけらでも感じることができれば、この人生に自身の幸せ以外の目的が見出せるのではないか。

そんな想いが無意識に募り、私にシルクロードを歩けと言っているのではないかと感じた。